牧師紹介

中島秀一 主管牧師

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中島 きよ子 師

中島牧師夫人
5人のお子様はそれぞれ信仰を持ち、社会や伝道者の道へと進まれています。




楠 淳子 伝道師

2001年4月から荻窪にこられました。



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藤井 正子 伝道師

西船橋栄光教会担当です。
ときおり荻窪にも来て下さいます。山口県出身。2006年4月に赴任されました。



楊 慶運 協力宣教師
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大韓イエス教長老会(合同) 正教師
総会世界宣教会(GMS)派遣宣教師
 2005年4月より荻窪栄光教会の協力宣教師としてご奉仕して下さいます。



金 仁雅 師

楊宣教師のご夫人で、オルガンやピアノの奉仕もして下さいます。



森山信子 師

1969年に荻窪栄光教会に赴任され森山諭師と共に荻窪栄光教会の働きを導いて下さいました。2005年3月に引退されその後荻窪栄光教会の協力牧師としてご奉仕して下さいます。



勧士 一重義助
主事 黛 藤夫 1992/3/1〜

牧師紹介:中島 秀一

なかじま しゅういち

●出身
 1937年(昭12年)生、神戸市出身。

●信仰歴
 1954年(昭和29年) 日本イエス・キリスト教団垂水教会おける本田弘慈先生の特別伝道集会において明確な救いの恵みにあずかる。
1955年(昭和30年) 4月10日 垂水教会において沢村五郎師より受洗。

●学歴
 1961年(昭和36年) 関西聖書神学校卒業、1966年(昭和41年) 按手礼を受ける。
その後、牧会の傍ら通信教育、放送大学、更にカリフォルニア神学大学院日本校に学ぶ。牧会学博士、哲学博士。

●牧会歴
 日本イエス・キリスト教団岡山県大原教会、新潟県直江津愛真教会、兵庫県西宮聖愛教会を経て、1990年から荻窪栄光教会主管牧師に就任、現在に至る。

●役職
 日本イエス・キリスト教団委員長、日本福音同盟副理事長、日本福音連盟理事長を歴任。現在、日本イエス・キリスト教団副委員長、日本福音同盟副理事長(宣教150周年担当理事)、お茶の水クリスチャンセンター理事、キングスガーデン東京理事、ケズィック・コンベンション東京委員会委員、首都イースターの集い実行委員長、総動員伝道委員、国内開拓伝道会委員、ワールド・ビジョン・ジャパン正会員、日韓親善宣教協力会委員、キリスト再臨待望同志会副会長などを務める。

●著書
「みことばに生きる」、「教会形成における牧会の意義とその役割」、「わたしは良い嗣業を得た」など。

●家族
 妻と三男二女。長女、長男、二男は既婚。

故 森山 諭 元老牧師

 日本イエスキリスト教団顧問、荻窪栄光教会元老牧師、森山 諭師は、1996年7月22日(月)午前7時37分召天いたしました。このページは、師のスピリットを受け継ぎ、伝えていくために、師の一生から様々な事を学びながら作っていきたいと考えています。

 森山諭牧師は1908年(明治41年)2月14日、福島県耶麻郡塩川町下遠田において父幸七、母イチの長男として出生。幼少の頃から「生とは何か、死とは何か」「なぜ男と女とがあるのか」を問い、数え年13才の年には、村の青年会で「人生とは、生きんとして生きんとする生き方にある」とまくし立てる哲学少年でありました。

 その後長じて、福島県立農林学校に入学。その頃より社会の矛盾に痛みを覚え、その思想は社会革命を志す共産主義へと大きく傾いて行きました。更に、博愛主義のキリスト教に触れるに及び、政治は共産主義、宗教はキリスト教でという信念を抱くに至りました。しかし、やがて、キリスト教にも失望。その後、神道、仏教、哲学へと思想の変遷を試みましたが、そこに救いを見出す事はできなかったばかりか、極度のノイローゼをはじめ、多くの病魔に取りつかれ、自殺寸前に迄追い込まれる結果となりました。

 田舎のローカル線に飛び込むべく待ちあぐねていた瞬間、突如として「己を捨て、己が十字架を負いて我に従え」という、かつて読んだ事のある聖書の言葉が響いてきました。あれこれと神とやり取りする中で、ついにガンとハンマーで頭をたたかれたように、その場にひれ伏してしまいました。あたかもかつての迫害者サウロの回心のごとく、神ご自身の導きによって、鮮やかな新生の経験をしました。1926年(昭和元年)、18才の頃であったと思われます。

 1928年(昭和3年)、生涯の伴侶であるサチ夫人と結婚、2男5女が与えられました。ある時、夫人の働きを良く知る知人が先生に対して「先生、天国ではあんたより奥さんの冠のほうがあんたより大きいですよ」と言われましたが、今は天国において仲睦ましく過ごされている事でありましょう。

 1937年(昭和12年)8 月、奥磐梯の桧原湖に御牧碩太郎師を招き、第1回磐梯聖会を開催、そこで受洗。同年9月、月刊誌「待望」を発刊しました。1941年(昭和16年)12月 7日夜、聖霊に迫られて泣きつつ書いた非戦論のために月刊誌「待望」は発禁処分となりました。しかし、先生の霊魂への情熱は権力に消されることなく、更に激しく燃え上がり、戦中戦後休む暇なく東奔西走、文字通り命がけの激しい巡回伝道が繰り広げられて行きました。

 1951年(昭和26年)7月、日本イエス・キリスト教団創立に参加、同時に按手礼を受け、待望教会牧師となりました。1958年(昭和33年)4月、東京に進出、駒込に日本イエス・キリスト教団東京教会を設立、やがて中田羽後師と出会い荻窪に転出、今日の荻窪栄光教会の基盤が据えられました。

 先生の働きは荻窪栄光教会や教団の範囲に止まらず、その純粋にして、積極果敢な信仰は超教派の働きに良く用いられました。再臨待望同志会東京大会実行委員長、日本ケズィック・コンベンション財務委員、日韓親善宣教協力会会長、ビリー・グラハム国際大会財務委員長など枚挙に暇がありません。そうした数多い働きの中で、誰よりも強い韓国に対する謝罪と宣教の思いは木浦共生園への協力、「たといそうでなくても」の映画化などへの協力という形で表されて行きました。

 1966年(昭和41年)より始まった異端、異教との熾烈な戦いは、それでなくても厳しい先生の伝道牧会になお拍車をかけることとなりました。わけても統一協会との戦いはまさに命を削る戦いそのものでありました。

 1988年(昭和63年)7月18日、自宅において脳出血で倒れ、即刻誠志会病院に入院、同年9月会津中央総合病院に転院、翌年6月誠志会病院に再度入院。1996年(平成8年)7月22日、午前7時37分、沈下性肺炎にて召天。享年88才5か月の生涯でありました。

 思えば先生の一生は、十字架の愛と再臨のキリストを軸にして、文書伝道と巡回伝道の両方を用いて、純粋にキリストの救いを宣べ伝えた、稀有な伝道者の生涯でありました。次の聖書の言葉は、先生の地上における最後の営みに最もふさわしいものであると信じます。

ああ、ますらお勇士は倒れたるかな、戦いの器は失せたるかな。
サムエル記下 1章27節

わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走り尽くし、信仰を守りとおした。
今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。
テモテ第2 4章7節、8節

故 森山 諭 牧師 略歴

1908年(明治49年) 2月14日、福島県塩川町に誕生
1926年(昭和元年) 新生の体験
1928年(昭和3年) 3月12日、サチ夫人と結婚
1937年(昭和12年) 御牧碩太郎師より受洗
1937年(昭和12年) 磐梯聖会開始
1937年(昭和12年) 月刊「待望」誌発刊
1941年(昭和16年) 日本キリスト教団において補教師准允
1942年(昭和17年) 韓国訪問の旅
1951年(昭和26年) 日本イエス・キリスト教団創立
1951年(昭和26年) 日本イエス・キリスト教団正教師按手礼を受ける
1951年(昭和26年) 日本イエス・キリスト教団待望教会設立、牧師となる
1951年(昭和26年) 日本福音連盟結成、実行委員となる
1958年(昭和33年) 聖歌発行、自作聖歌「夕べ雲やくる」入選
1958年(昭和33年) 日本イエス・キリスト教団東京教会設立、牧師となる
1960年(昭和35年) 同教団荻窪栄光教会と改称
1966年(昭和41年) 異端との戦い始まる
1967年(昭和42年) 再臨待望同志会結成、東京大会実行委員長
1967年(昭和42年) 1967ビリー・グラハム国際大会にて渉外委員長
1968年(昭和43年) 日本福音同盟結成、実行委員となる
1972年(昭和47年) ケズィック聖会会計主任拝命
1975年(昭和50年) 聖地旅行
1977年(昭和52年) 韓国木浦共生園訪問
1980年(昭和55年) 1980ビリー・グラハム国際大会にて財務委員長
1980年(昭和55年) 韓国世界福音化大聖会に参加
1981年(昭和56年) 日韓親善宣教協力会結成、会長に就任
1981年(昭和56年) 英国ケズィック表敬訪問の旅
1988年(昭和63年) 第38回教団総会において教団顧問に就任
1988年(昭和63年) 7月18日、自宅にて脳溢血で倒れる 誠志会病院に入院
1988年(昭和63年) 9月、会津中央総合病院に転院
1989年(平成1年) 6月、誠志会病院に再度入院
1991年(平成3年) 第1回福音功労賞を受賞
1996年(平成8年) 7月22日午前7時37分、沈下性肺炎にて召天 享年88才

故 中田 羽後 師

 中田羽後は明治29年(1896年)9月9日 父重治と母かつの次男として生まれ、教会音楽に生涯を捧げられました。 昭和49(1974年)年7月14日 荻窪栄光教会の説教中に召天されました。 荻窪栄光教会は中田師の住んでおられた場所に建っています。

 中田師は、日本を代表する教会音楽の権威者として著名でした。また、教会の礼拝で歌われる聖歌の編纂者としても知られています。昭和44年、献堂されたばかりの教会にパイプオルガンを寄贈されました。木製の暖かい音色のオルガンは、毎週の礼拝の他、音楽特別伝道集会、メサイア公演などで大活躍しています。