故 森山 諭 元老牧師

 日本イエスキリスト教団顧問、荻窪栄光教会元老牧師、森山 諭師は、1996年7月22日(月)午前7時37分召天いたしました。このページは、師のスピリットを受け継ぎ、伝えていくために、師の一生から様々な事を学びながら作っていきたいと考えています。

 森山諭牧師は1908年(明治41年)2月14日、福島県耶麻郡塩川町下遠田において父幸七、母イチの長男として出生。幼少の頃から「生とは何か、死とは何か」「なぜ男と女とがあるのか」を問い、数え年13才の年には、村の青年会で「人生とは、生きんとして生きんとする生き方にある」とまくし立てる哲学少年でありました。

 その後長じて、福島県立農林学校に入学。その頃より社会の矛盾に痛みを覚え、その思想は社会革命を志す共産主義へと大きく傾いて行きました。更に、博愛主義のキリスト教に触れるに及び、政治は共産主義、宗教はキリスト教でという信念を抱くに至りました。しかし、やがて、キリスト教にも失望。その後、神道、仏教、哲学へと思想の変遷を試みましたが、そこに救いを見出す事はできなかったばかりか、極度のノイローゼをはじめ、多くの病魔に取りつかれ、自殺寸前に迄追い込まれる結果となりました。

 田舎のローカル線に飛び込むべく待ちあぐねていた瞬間、突如として「己を捨て、己が十字架を負いて我に従え」という、かつて読んだ事のある聖書の言葉が響いてきました。あれこれと神とやり取りする中で、ついにガンとハンマーで頭をたたかれたように、その場にひれ伏してしまいました。あたかもかつての迫害者サウロの回心のごとく、神ご自身の導きによって、鮮やかな新生の経験をしました。1926年(昭和元年)、18才の頃であったと思われます。

 1928年(昭和3年)、生涯の伴侶であるサチ夫人と結婚、2男5女が与えられました。ある時、夫人の働きを良く知る知人が先生に対して「先生、天国ではあんたより奥さんの冠のほうがあんたより大きいですよ」と言われましたが、今は天国において仲睦ましく過ごされている事でありましょう。

 1937年(昭和12年)8 月、奥磐梯の桧原湖に御牧碩太郎師を招き、第1回磐梯聖会を開催、そこで受洗。同年9月、月刊誌「待望」を発刊しました。1941年(昭和16年)12月 7日夜、聖霊に迫られて泣きつつ書いた非戦論のために月刊誌「待望」は発禁処分となりました。しかし、先生の霊魂への情熱は権力に消されることなく、更に激しく燃え上がり、戦中戦後休む暇なく東奔西走、文字通り命がけの激しい巡回伝道が繰り広げられて行きました。

 1951年(昭和26年)7月、日本イエス・キリスト教団創立に参加、同時に按手礼を受け、待望教会牧師となりました。1958年(昭和33年)4月、東京に進出、駒込に日本イエス・キリスト教団東京教会を設立、やがて中田羽後師と出会い荻窪に転出、今日の荻窪栄光教会の基盤が据えられました。

 先生の働きは荻窪栄光教会や教団の範囲に止まらず、その純粋にして、積極果敢な信仰は超教派の働きに良く用いられました。再臨待望同志会東京大会実行委員長、日本ケズィック・コンベンション財務委員、日韓親善宣教協力会会長、ビリー・グラハム国際大会財務委員長など枚挙に暇がありません。そうした数多い働きの中で、誰よりも強い韓国に対する謝罪と宣教の思いは木浦共生園への協力、「たといそうでなくても」の映画化などへの協力という形で表されて行きました。

 1966年(昭和41年)より始まった異端、異教との熾烈な戦いは、それでなくても厳しい先生の伝道牧会になお拍車をかけることとなりました。わけても統一協会との戦いはまさに命を削る戦いそのものでありました。

 1988年(昭和63年)7月18日、自宅において脳出血で倒れ、即刻誠志会病院に入院、同年9月会津中央総合病院に転院、翌年6月誠志会病院に再度入院。1996年(平成8年)7月22日、午前7時37分、沈下性肺炎にて召天。享年88才5か月の生涯でありました。

 思えば先生の一生は、十字架の愛と再臨のキリストを軸にして、文書伝道と巡回伝道の両方を用いて、純粋にキリストの救いを宣べ伝えた、稀有な伝道者の生涯でありました。次の聖書の言葉は、先生の地上における最後の営みに最もふさわしいものであると信じます。

ああ、ますらお勇士は倒れたるかな、戦いの器は失せたるかな。
サムエル記下 1章27節

わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走り尽くし、信仰を守りとおした。
今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。
テモテ第2 4章7節、8節